嶋田佑紀公式Blog【おむすびとわたしと。】

わたしがひかりの種として伝えている「心がほどけるおむすび」から派生した話と、その活動に共感してくれた人たちで伝える「おいしい」の尊い力を綴っています。

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何を食べたか、より、どう食べたかだなと思う。

ご訪問ありがとうございます。

嶋田佑紀(しまだゆうき)です。

 

心がほどけるおむすびを伝えている嶋田さんって
どんなイメージをお持ちでしょうか。

  • ごはんが大好き
  • お米が大好き
  • 健全健康な食生活

 

そんなイメージをもたれることも多いです。

親御さんが
食生活をきちんとされていたんでしょうね、ということもよく言われます。

 

 

たしかにわたしの母は
食生活をとても大切にしていました。

 

「残しちゃだめ」「ちゃんと食べなさい」

からはじまり

お箸の持ち方や座り方まで
かなり厳しく躾られた記憶があります。

 

「食べることは生きること」
と教えてくれたのも母です。

だから「ちゃんとしたものを食べなさい」「ちゃんと食べなさい」って。

 

 

 

そんなふうに記憶を辿っていたら
「おいしい。。。」と安堵感に包まれたり
「やったー!!!」と喜びにあふれたりしながら
ごはんを食べた記憶がほとんどないなー、ってことにも気づいてしまいました。

 

山盛りの唐揚げを目の前にして
「やったー♡♡」みたいなテンションで好きなだけ食べた
みたいな思い出はないんですよね。

 

「おいしいぃぃ。。。。」と
肩の力が抜けるようなごはんを出してもらった記憶もありません。

 

しかも父がとても文句の多い人でね。
「こんなもん、おかずになるか」ってよく言ってた。

だから食卓は静かにするものだったし
味わうよりも緊張感が漂っていた気がします。

そんな食卓で
わたしは素直に「おいしいー♡」って言えなかったのかもしれないです。

 

そしてわたし
よくリバースしていました。。。
(これはもう、言いたいことを全部飲み込んで生きていたからだと思います)

 

母にしてみたら
すごい悲しかっただろうな、と思います。

文句言われるわ、リバースされるわ、じゃぁ、、、、ね。

 

 


まぁ、そんなふうに
自分の過去の食生活や食卓の風景を思い返していたら

何を食べたか

よりも

どんな風景で、環境で食べていたか

ばかりが思い出されるんですよね。

 

 

こう書くと
あまり楽しそうな風景ではないのだけど

多分そういった食卓や環境は
母の本意ではなかったろうな、とも感じるのですよ。

 

躾だって
父の躾に対する姿勢をそのまま反映していただけで

食事だって
世間一般の「こうでなければならない」を反映していただけで

母の「こうありたい」ではなかったのではないんじゃないかな、とも感じています。

 

 

わたしは今
子ども達が食べたいものはめいっぱい好きなだけ食べさせてあげたいから
安全なものでつくるし

食べることって楽しいね、を一番感じてほしいから
お箸の持ち方や姿勢を注意する時には
タイミングを大切にしています。

 

だって食べる時
「おいしい」って思えることが何より幸せだもん。

 

栄養よりも、躾よりも
おいしい、って感じられた時の
心と体へのエネルギーこそ
ごはんの意義?甲斐?だと思うんですよ。 

 

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みかん5個目ですけど、なにか?笑

 

そしてそれらは母を反面教師にしたからやっているつもりは全くなくて。
もちろん
「お母さんはできなかったからやってあげて」と言われたこともなく。

なんというか
魂の部分で、わたしが叶えてあげたというか。
母(先祖)がやりたかったことをわたしがやってあげたことで昇華してあげた感じ。

だからこそ
今わたしがここにいてそれをやっている、というか。 

 

 

「きちんと」って
なんだろうね。

 

「ちゃんと」って
なんだろう。

 

そんなことより
どんな食卓で過ごしたいか、を考えて

それを行動にした方が

子どもにとっても、夫婦にとっても
そしてつくる人にとっても
いい思い出が増えるし
いい影響が高まるんじゃないかな、と思う。

 

何を食べるか、で迷うより
どんな食事の時間を過ごすか、に焦点をあててみると
もしかしたら気がラクになることもあるかもしれないです。

 

何を食べたかより
どんな時間だったか、の方が(しかも食事の時間って毎日積み重なるから)
記憶に残るし、影響するなぁ、と
過去のわたしを感じて思いました。

 

 

 

 

 

 

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